ちょっと考えさせられる。
to 中国人all;
以下、めんどくさいので日本語で書くけど、中国語的な論理展開をするので諒とされたし。>チベット独立は無理
これは同意。経済的に無理。そして、統治が50年近く続いてる時点で「いまさら」無理。
だが、現状に問題があることも認識してほしい。
...それは例えば以下の2点について1.中国人が「○○してあげる」という名目で侵攻中の行為を、チベット人は望んでいるのか?
2.チベットの対中「歴史問題」に関して
【1について】
>主要因為在中國統治下、那里的人們可以生活得更加幸福。
>今日チベット的當務之急便是インフラストラクチャー整備。視野を置き換えて以下の問題について考えてみてほしい。
――――――――――――――――――――――
<事実>
◆30~40年代、満洲(偽満)帝国内の中国人の生活水準とインフラは両方とも
著しく向上した。現在の大連・瀋陽・長春・ハルピンの発展の基礎は日本の
統治を抜きにしては考えられない。◆19世紀後期以降、上海・香港・天津・青島の中国人の生活水準とインフラは
両方とも著しく向上。欧米列強と日本の統治によって(以下略)。
<事実から導かれる結論>※仮に第二次世界大戦が発生せず、
中国全土がイギリス・アメリカ・・フランス・日本に占領統治されていた場合。→(少なくとも40~80年代の)中国人の生活とインフラのレベルはもっと高くなった。
→国共内戦・大躍進・文化大革命・天安門事件などは発生せず、中国人民は
中共と毛沢東の統治下よりもはるかに平和で安全に暮らすことができた。→日本人と欧米人の手で中国共産党員と国民党員が国外に追放されるため、
太子党や蒋家王朝みたいな特権階級を撲滅することができた。→現在の中国人は誰もが英語や日本語を流暢に話せるようになるはずだった。
→日本人と欧米人が入植して商業・農業の主導権を握ることにより、
中国の人口爆発は抑えられた。→日本人と欧米人は中国のインフラ整備のための資本投下をどんどん行い、
中国の財政を黒字化させた。→中国の伝統文化は、日本人や欧米人にとって珍しく奇異なものだ。
しかし、無知な中国人に与えておくとその価値がわからずに破壊してしまう。
なので、列強の手で文化保護区や民俗文化村を作って保護し、
日本人と欧米人がそれを見て楽しめるようにするのが正しい行動である。→抗日蜂起や反帝蜂起をした連中は社会の治安を乱す暴徒である。
日本と列強の武装警察を投入して、拷問して殺すのは当然だ。――――――――――――――――――――――
...気分を悪くしたなら先に謝っておく。
だが、上記を読んで、中国人としてどう思う?「中国人は中共に統治されて党奴として暮らすより、列強に支配してもらった方がいい」
と、罪悪感を感じずに言えるかい?
上記の文章の「中国」をチベットに置き換えて、
「日本と欧米列強」を中華人民共和国に置き換えれば、
それでチベットと中国の問題がちょっとわかる。征服者の中国人による
インフラの整備や生活の向上を、チベット人は本当に望んでいるんだろうか?
偏った教育を受け、報道にも制限があり、ネットでも自由に情報にアクセスできない、という印象がある中国の人にもこれだけ柔軟な考え方ができる人がいるということには驚かされる。
もっとも、書き込んでいる人は留学生とかで日本国内にいるのかも知れないけれど。
同じページにもう一つ。
日本のみなさんへ;
チベットの独立は無理だ。
確かにチベットは元朝までは独立国だったけど、その後は長いこと中国に属してる。
中華人民共和国の成立後、
大部分のチベット人の生活レベルは低下はしておらず、むしろ向上した。個人的にはチベットと沖縄のことは同種の問題に属するように思える。
中国の糞青のなかには沖縄独立を叫んでいる馬鹿もいるが、自分はそれに賛成しない。
日本の統治下で沖縄人の生活は向上したからだ。台湾はもしかしたら既に「独立」しているのかもしれない。
だがチベットとウイグルは駄目だ。
中国の統治下で幸せに暮らした方がいい。
実はこちらの方が先に書かれていて、それを受けての最初の引用の意見なのだけれども...。
「チベット」と「沖縄」は同じだ、というのがチベット問題を論じる場合の中国側の姿勢を擁護する立場の人によくある意見らしい。
これはちょっと違和感を感じてしまう。それで少し調べてみた(ソースは全てWikipedhia)。
【琉球(沖縄)】
1429年 第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国が成立。
1462年 尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)が、尚徳王の薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立。
1571年 奄美諸島北部を攻略、このころ王国の版図は最大に。
1609年 薩摩藩の島津氏、琉球への侵攻を開始。1か月ほどの戦で尚寧王は和睦を申し入れて開城。奄美諸島は薩摩藩の直轄地に。
1871年 廃藩置県によって琉球は鹿児島県の管轄に。
1872年 琉球藩を設置、明治政府は琉球国王尚泰を琉球藩王に封じる。
1879年 明治政府は琉球処分により沖縄県を設置。初代沖縄県令として鍋島直彬が赴任。
【チベット(西蔵)】
633年 ソンツェン・ガンポ王はスピ族を平定し、都をラサに定め、吐蕃王朝を開く。
877年 吐蕃の叛乱勢力がロカのヤルルン渓谷を占領。吐蕃王朝は滅亡。
1240年 モンゴル帝国の第2代大ハーン、オゴデイの息子コデンはチベットを攻略。
1288年 モンゴル帝国の第5代大ハーン、クビライは宣政院を設立、チベットを支配する。
1354年 パクモドゥ派のチャンチュポ・ギェルチェンは反乱を起こし、中央チベット全域を支配。
1406年 明の永楽帝は中央チベットのネドン政権(5代目タクパ・ギェルツェン)を承認し、闡化王の称を与える。
1409年 明はチベットの知事を帝国の組織に編入する。
1642年 ホショード部のトゥルバイフ(グーシ・ハーン)は、「チベットの王」に即位、ダライラマ5世にチベットの中枢部を寄進、ダライ・ラマ政権が発足。
1717年 ジュンガルの侵攻を受けて、トゥルバイフの直系は絶える。
1723年 清朝の雍正帝が青海地方に出兵、、グシ・ハン一族を征服。チベットの西南部はガンデンポタンに委ね、東北部は中国本土に併合(雍正のチベット分割)。
1911年 辛亥革命により清朝倒れる。
1913年 ダライ・ラマ政権はモンゴルとの間で「チベット・モンゴル相互承認条約」を締結、ラサを占拠する清国軍を駆逐、実質的な独立状態に。
1940年 ダライ・ラマ14世の即位式典に列席した中国国民党の使節団は「中華民国蒙蔵委員会駐蔵辧事処」を名乗ってラサに居座る。
1950年 中国共産党は人民解放軍によりチベットを軍事占領、チベットの主権を奪う。
1956年 チベット動乱の勃発。
1959年 ダライ・ラマ14世はラサを脱出。国境を越える直前「チベット臨時政府」の樹立を宣言してインドへ亡命。
1965年 西蔵自治区が成立。
まとめてみる。
| 琉球 | チベット | |
|---|---|---|
| 独立国だったのは | 1609年まで | 1723年まで |
| 属国だったのは | 1609-1871年 | 1723-1965年 |
| 独立を失ったのは | 1871年 | 1965年 |
独立国であるのはもちろん、属国であっても国は国としての形を保っている。ただ政治的に自由がないだけで。しかし藩や県と言おうと自治区と言おうと、相手国の行政組織に編入されてしまえば、国としての体裁は取れなくなってしまう。
琉球とチベットの差は100年程度である(属国になった年で114年、独立を失った年で94年)。長い歴史の中で見れば、そんな大層な差ではないようにも見える。
例えば、今が1609年なら、琉球は国際的に認められた独立国であり続けられそうな気もする(もちろん国際的な力関係の中で独立は脅かされるかもしれないが)。
琉球がその政府組織を失ったのは1871年、明治維新によって日本にも曲がりなりにも近代国家が成立したのが1868年だから、その直後ということになる。
そこで、時代背景を見てみよう。
1870年代、世界はまだ帝国主義の世の中。1870年7月に始まる普仏戦争まではフランスにもナポレオン3世がいたし、戦後の1871年には実質的に分裂状態だったドイツが統一され、ドイツ帝国が歴史上に登場している。ちなみにイタリア王国の成立はその10年前の1861年。
このころ262年の間日本の属国的な立場にあった琉球王国がその命脈を途絶えさせているわけだ。
これは国際的にはドイツに吸収されたバイエルン王国や、イタリアに吸収された両シチリア王国と同じように見えるかもしれない。
やがて1914年から第一次世界大戦が勃発する。この戦争はヨーロッパ諸国の君主制を消滅させた。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン・トルコ帝国、そしてロシア帝国が戦後にはなくなっていた。
1919年に第一次世界大戦の講和条約として締結されたヴェルサイユ条約では、アメリカ合衆国のウィルソン大統領の提唱した「民族自決」が基本原則とされ、ポーランドが復活、チェコスロバキアとユーゴスラビアが新たに誕生した。
1939年には第二次世界大戦が勃発。ポーランドやチェコスロバキア、ユーゴスラビアをはじめ、オランダやベルギー、ルクセンブルクはおろかノルウェーやフランスまで一時はドイツの占領下となったが、戦後にはそれらの国々の独立は再び回復された。
さらに1945年からはヨーロッパ諸国の植民地であった地域の独立が相次ぐ。1945年にはヴェトナムが、1946年にはシリア、ヨルダン、フィリピンが独立を宣言、ヴェトナムなどすぐに認められたわけではない(ヴェトナム戦争を経て1976年南北統一)が、独立国は増えていった。
1960年は「アフリカの年」とも呼ばれ、この年のだけでアフリカでは17カ国が独立、12月には国連総会決議において植民地独立の権利は一般国際法上の権利として認められるにいたった。
チベットから独自の政府組織が失われたのがダライ・ラマ14世が亡命した1959年、行政組織として法的にも中華人民共和国内に組み込まれたのが1965年、国際的にはこうした背景を持つ時代であるというわけだ。
だからこそ国際的にはチベットと琉球は同じようには扱われないのだ。
時代の後先という面はある。中国に近代国家が成立した(つまり封建体制が倒れた)のは辛亥革命の1911年(もっともすぐに袁世凱が皇帝になったが)。1928年には北伐が完了して一応の全国統一を果たしている。
このあとイギリス、アメリカ、そして特に日本が中国に手や口を出さなければ(そして国共内戦がなければ)、チベットを含めた清朝期の領土回復はもっと早く果たせたと言われれば確かにそうだ。しかし、国際的な、つまり他国からの見え方というのはこんなものだ。
ここで表題の問いに答えよう。国際的にはおそらく、1919年におおよその近代国家の領域は定められている。アジアやアフリカなどは後回しではあるが。
1945年にはアジアやアフリカについてもほぼ「こうあるべき」といった空気ができてきている。
そして1960年代にはそれがほとんど実現された。
そういう意味で中国のチベット征服は遅すぎたのだ。国際的に認められるという点から言えば。
なお、チベット問題については、「完全な独立の回復」というのと「人権問題の解決」とはまた別の問題である。
例えば1988年に亡命中のダライ・ラマ14世が発表したストラスブール提案では、チベットは「チベット3州を統合し、真の自治を享受するが、チベットの防衛、外交については引き続き中国が担当することができる」と中華人民共和国に対して提案している。必ずしも「独立ありき」ではないのだ。
チベットにダライ・ラマ14世が復帰し、ガンデンポタン政府による自治が回復する。それによって中国による人権侵害が終息し、チベットの人たちが将来的にもガンデンポタン政府を支持するかどうかはともかく、自由意思によってそれが選択できるようになるのが先決だろう。
