晴れ渡った好天、対戦相手、現在首位、広い(そして客の入りがもうひとつの)埼スタと油断する要素満載なアルビレックス新潟戦に勝ちました。
試合についてはニッカン式スコアくらいで良いでしょう。
一つ言えるのは、点差以上に大きな力の差が感じられたことです。
さて、この試合でセルヒオ・アリエル・エスクデロ選手がトップチームの公式戦デビューを飾りました。公式戦に出場した選手としては、レッズとしても昨年の大山の記録を塗り替えて最年少ということになるでしょう。
ここで彼と、かつてこのチームに在籍していた彼の一族について少し調べてみました。
彼には彼と同じ名前の父と、オズワルド・サルバトーレ・エスクデロという叔父の2人のレッズでの先輩がいます。
叔父のオズワルドが最後に公式戦に出場したのは、1992年12月23日のヴェルディ川崎との天皇杯準決勝@国立ですから、実に12年と5ヶ月ぶりに彼らのファミリーネームであるエスクデロ(Escdero)の名がレッズのメンバー表に刻まれたわけです。
さて、この彼の叔父である"Osvaldo Escudero"はあまり知られてはいませんが、実のところ偉大な選手です。
FIFA.comのワールドユースのページの1979年、日本で行われた第2回ワールドユースにオズワルド・エスクデロはアルゼンチン代表としてその名を記しています。
In terms of footballing talent and virtuosity going forward, the Albiceleste were in a class of their own, with Diego Maradona, Gabriel Calderon, Ramon Diaz and Osvaldo Escudero all grabbing their share of the headlines.
(超いい加減な訳・間違ってたら誰かこっそり教えて)
フットボールの才能と卓越した名人芸によって、ディエゴ・マラドーナ、ガブリエル・カルデロン、ラモン・ディアス、そしてオズワルド・エスクデロのアルビセレステ(白と水色=アルゼンチン代表)は全てのヘッドラインを独占した。
このように、この時点でオズワルド・エスクデロはディエゴ・マラドーナ、ガブリエル・カルデロン、ラモン・ディアスと並び称されています。
1981年には彼はBoca Juniorsでマラドーナと一緒にプレーしています。
その当時のオズワルドのバイオグラフィーを見ると、スペイン語はわかりませんので内容はさっぱりですが、写真には髪型こそ違え、目元から鼻筋にかけてセルヒオにも面影が見られるオズワルドがいます。
ワールドユースのU-20アルゼンチン代表は、ラモン・ディアスが9、マラドーナが当然10、ガブリエル・カルデロンが11をつけ、オズワルドは7をつけています。
オズワルドは三菱浦和で試合出場する際にも7を選んでいることから、あるいはその番号を好んで付けていたのかも知れません(一方セルヒオはユースではたいてい10でした)。
92年に天皇杯ベスト8進出を果たし、翌年期待される中、レッズはオズワルドとの契約を高齢(当時33歳)からか、彼の弟で結局試合出場は果たせなかったセルヒオの同名の父(以降セルヒオ父)と共に更新せず、オズワルドは帰国することになります。
一方、セルヒオ父は早々と現役生活に見切りをつけ、日本で指導者の道を目指します。
90年に準備され、91年に設立された浦和スポーツクラブがその舞台でした。
浦和スポーツクラブは一時期レッズの下部組織として機能していましたから、当時のユース出身者は彼の指導を受けているかも知れません。
浦和スポーツクラブは91年からユースは94年、ジュニアユースは95年までレッズと関わっていますから、例えば93~95をユースで過ごした鈴木慎吾選手、94~96をジュニアユースで過ごした千島徹選手などが該当します。
千島などはセルヒオ父の影響でアルゼンチンサッカー好きになったとか。
この頃セルヒオは4歳(92年)、セルヒートくんと呼ばれ、水内は大原で遊んであげたようなことを言っていますから、セルヒオ父が大原へ連れてきていたのでしょう。
あるいはこの日、対戦相手としてピッチにいた鈴木慎吾選手などは5~6歳のセルヒートくんを見知っていたかも知れません。
で、浦和では早ければ小学校に上がる頃に少年団に入りますから、セルヒオも恐らく6歳(94年)くらいから浦和針ヶ谷サッカー少年団で本格的にサッカーを始めたのでしょう。
彼もまた浦和の伝統に則ったサッカーの始め方をした「浦和っ子」なわけです。
セルヒオ父は浦和スポーツクラブがレッズの下部組織としての役割を終えた96年に帰国します。
セルヒオは小学3年(8歳)まで日本で過ごしていたわけで、93、94年は共に低迷期、94年に暢久や岡野が加入、W杯明けにギド、バインが来日、95年からオジェック就任と持ち直して来た頃です。
私などは小学生低学年の頃のことなどおぼろげにしか覚えていませんが、彼にとってはこれがレッズの原体験ということになるのでしょう。
彼は帰国すると、名門ベレス・サルスフィエルドに加入します。日本ではほとんどありえないことですが、13歳の時にはU-15アルゼンチン代表の候補になっているそうです。
向こうではあのオズワルドの甥が成長したということで話題になったでしょうか?(たぶんなってないでしょうが)
9歳から13歳まで5年間をベレスの下部組織で過ごし、14歳になると、セルヒオ父が再来日して柏レイソルと提携している柏レイソル青梅のコーチに就任したため、セルヒオも来日してここに加入します。
当時から良くも悪くも王様プレーっぷりを発揮していたとか。
で、その翌年セルヒオ父が埼玉栄高校のコーチに就任したことでセルヒオもレッズへの加入を果たしたわけです。
彼のデビューは、他のユースの選手たちにとって恐らく大きな影響を与えています。
これまでは高校卒業してから「昇格」という問題があったのに対し、彼によって2年生でもトップのピッチに立てるかもしれないという可能性が証明されたからです。
確かにセルヒオはちょっと抜けていましたが、あのくらい実力をつけて、運が良ければ確かに夢が叶うのです。
既にサテの練習に参加している者は、そこでアピールできるように、まだサテの練習に呼ばれていないものはユースでアピールしてサテ練に呼ばれるように。
それぞれにとって目標は明確になったと思います。
そんな意味でもピッチ上の彼の周囲にはきっと光が指して見えたでしょう。
それを望むものの目には。