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岩槻太田氏六代

さいたま・岩槻合併によせて

さいたま・岩槻2市長 協定書に調印


 さいたま市と岩槻市の合併協定書調印式が24日、さいたま市内であり、相川宗一・さいたま市長と佐藤征治郎・岩槻市長が協定書に調印した。両市は9月議会で承認されれば、知事への合併申請、県議会での審議などを経て、来年4月1日の合併が実現する。

先日、さいたま市と岩槻市の間で合併協定書が調印されました。
旧北足立郡に属していた浦和市、大宮市、与野市からなるさいたま市と、旧南埼玉郡に属していた岩槻市の合併ということで、郡の違いというよりはむしろ鉄道路線の違いが大きいですが、異なる風土を持つ地域が合併することになります。

しかし、かつてこの地域が一つの勢力の下、自立していたことがあったのです。
その中心は岩付城(岩槻市)。※かつて岩槻は岩附、岩付などと記されたそうです。
その勢力の名は、岩槻太田氏。扇谷上杉氏の家臣です。

有名な太田道灌とその父道真の手により、応仁の乱に先立つこと10年の長禄元年(1457)に岩槻の地に城が築かれてから、太田系の最後の岩槻城主・太田氏資が上総で戦没する永禄10年(1567)までの6代110年をそれぞれの当主ごとにまとめてみました。

仙台に伊達政宗が、新潟に上杉謙信が、甲府に武田信玄が、名古屋?岐阜?に織田信長が、大阪に豊臣秀吉があるようには、この新しいさいたま市の象徴に岩槻太田氏がなることはないかも知れません(マイナー過ぎ)が、単なる一地方都市から一地域へ変貌を遂げようとするこの街(まぁ自治体の線引きが変わるだけですが)にとっては、歴史を改めて確認しておくのも悪いことではないと思います。

よく出る人名解説

太田氏:
清和源氏の末流。先祖の資国が丹波国太田郷(京都府亀岡市)に住んだことから、太田氏を名乗るようになりました。上杉氏に従って関東に移住、その家宰(執事)となります。武蔵移住後、武蔵国太田庄(熊谷市)の地頭職に補せられてから太田氏を称するようになったという説もあるそうです。太田道灌はこの家の出身です。名前に「資」の字が付くのが通例のようですね。

扇谷上杉氏:
上杉氏の一族で、相模国糟屋(相模原市)を本拠としています。後に岩槻城と共に道真・道灌父子が築いた河越城へ移りました。太田道灌はこの扇谷上杉家の家宰でした。

山内上杉家:
扇谷上杉家と同じ上杉一族。新田氏を抑えるために上野国(群馬県)守護に任じられていらい、上州とは関係が深く、本拠は平井城(藤岡市)でした。こちらの家宰は長尾氏です。
上杉家には山内(やまのうち)、扇谷(おおぎがやつ)の他に、犬懸(いぬかけ)、託間(たくま)という四つの系統があり(それぞれ鎌倉の屋敷の地名・山内、扇谷、犬懸谷、詫間谷に由来しています)、先祖の憲房が足利尊氏と行動を共にしたことから、山内が本家扱いとなっています。
上杉氏は関東管領足利氏の執事でしたが、足利氏が鎌倉公方を称するに伴い、上杉氏も関東管領を称するようになりました。
上杉謙信という戦国武将が有名ですが、彼はこの山内上杉氏の家宰長尾氏の一族で、山内上杉憲政より上杉の名跡を譲られて上杉と称するようになりました。

古河公方:
室町幕府の関東出先機関として置かれた鎌倉公方でしたが、第四代足利持氏の時に室町幕府の将軍職を巡って幕府と対立します(持氏の弟・義教が還俗して将軍職を継いだ)。これを諌めた関東管領上杉氏と対立、持氏は幕府に討伐されます。
その後持氏の三人の遺児を奉じて常陸の結城氏が挙兵、これは幕府軍によって鎮圧、遺児のうち長男、次男は殺害されますが、三男の永寿王丸だけが助けられます。
この永寿王丸が後の足利成氏となり、再び鎌倉府に君臨しますが、父と兄弟の仇である関東管領上杉憲忠を誅殺、再び幕府の討伐を受けることになり、関東管領上杉氏と対立、鎌倉を逃れて結城氏以来味方の多い古河に移り、古河公方を称すようになりました。
古河公方方と上杉方の勢力圏は利根川・太日川(雑に言うと利根川に荒川と入間川が合流した川。いまの中川?)を境にしていますので、岩付城、江戸城は最前線の城だったわけです。

太田氏略系図
       (江戸太田氏)
資長(道灌)┬-資康─-資高─-康資
      │               ┌-氏資─=氏房(北条氏政次男)
      │               │
      │           ┌-資時├-政景(梶原)【久保田→越前】
      │(岩槻太田氏)    │   │ 【越前】
      └=資忠─=資家─-資頼┴-資正┼-資武┬-資信─-資親─-資将
                      │   │
                      ├-景資└-正長【草津】
                      │【久保田?】
                      └-資忠(潮田)┬-資勝
                              │
                              └-資政【古河】
初代 太田資忠 ????-1479 図書助
資忠は道灌の弟、あるいは甥と言われていますが、確かなことはわかりません。道灌は彼の才幹を愛し、自らの養子にしたともいいます。彼自身は岩付城とは特に関係がないようですが、彼の死を悼んだ道灌が、甥に跡を継がせたため、彼が岩槻系太田氏の祖ということもできるのではないでしょうか。

文明3年(1471)、上野国館林・舞木城攻めで戦功を挙げ、将軍足利義政から御内書を与えられたのが史料上では初見とされていますが、この頃には既に道灌配下の一手の将として活動していることがわかります。
山内上杉家の家宰、長尾家の家督が嫡男の景春でなく、弟の景忠に与えられた事をきっかけにして、文明8年(1476)に長尾景春が幕府と対立する古河公方足利成氏に内通、鉢形城(大里郡寄居町)で豊島泰経、泰明兄弟などと語らって反乱を起こしたいわゆる長尾景春の乱の際、河越城(川越市)に資忠を初めとする松山衆を入れて守らせたそうですから、この頃資忠は松山城(東松山市)を与えられていたことがわかります。

扇谷上杉定正は足利成氏と和睦しますが、これで収まらないのは長尾景春で、千葉家宗家(千葉介)の座をめぐって幕府方の武蔵千葉氏・千葉自胤と対立していた古河公方方の千葉介孝胤とともにこの和議に反対、文明10年(1478)3月、羽生に陣を張ります。
豊島勢を追って小机城(横浜市)を攻めていた道灌は、資忠に一軍を与えて羽生に向かわせています。これに河越城の扇谷上杉定正の軍勢が加わって対陣しますが、千葉介孝胤、長尾景春は戦わずに引き揚げています。

本拠の鉢形城に籠った長尾景春が7月に開城、秩父に追放されると、12月には千葉介孝胤の追討が決まり(成氏が自らの和睦の意に背いた孝胤の討伐を認めました)、資忠は道灌、千葉自胤とともに下総に出陣、国府台(市川市)に城を築いて千葉介孝胤の軍勢と対陣します。
境根原(柏市)で両軍は激戦を繰り広げますが、孝胤方が敗れ、臼井城(佐倉市)へ退却します。
道灌は江戸に戻り、資忠と千葉自胤の軍勢が臼井城を包囲しますが、堅固な臼井城は容易に落ちず、数ヶ月膠着状態になります。
そこで道灌は千葉自胤に周辺の他の城を攻略することを指示し、自胤は庁南城(長生郡長南町)、真里谷城(木更津市)、海上城などの攻略に成功、資忠と合流します。
文明11年(1479)7月、長陣に飽いた資忠、自胤勢からは帰国するものが続出し、資忠は城を強攻しますが、資忠以下五十余名が討ち死に、自胤は武蔵へ帰国します。
資忠の遺体は臼井城下に丁重に葬られました。

二代 太田資家 ????-1522
資忠が討ち死にしてしまったため、道灌が別の甥を資忠の養子として跡を継がせました。 この資家が初代の岩付城主として知られています。 したがって、「岩槻」系太田氏としての初代はこの資家と言うべきかも知れません。

文明11年(1479)に資忠が討ち死にし、その後に資家が跡を継いでいるわけですが、その7年後の文明18年(1486)に道灌が、関東管領山内上杉顕定に唆された主君・扇谷上杉定正に相模糟屋の上杉邸で暗殺されます。
山内上杉氏と扇谷上杉氏は元々同族です(実は扇谷のほうが嫡流)が、当時山内のほうが歴代の関東管領を務めるなど、高い名声を誇っていたのを道灌の力によって脅かされたと顕定は感じていたのでしょうか。

これをきっかけに山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立が始まり、道灌の子・資康は定正に背いて顕定についたのですが、資家は謀殺された道灌の霊を弔うため、道灌が構えていた陣屋(比企郡川島町)の跡に養竹院という寺院を建立、叔父の叔悦を初代住職に迎えています。

道灌暗殺の2年後の長享2年(1488)から山内上杉氏と扇谷上杉氏は数回合戦を繰り広げています。

長享2年(1488)2月、実蒔原(相模原市)の合戦:
山内上杉顕定が相模七沢城(相模原市)へ侵攻、救援に駆けつけた扇谷上杉定正との間で対戦、山内方敗走。

長享2年(1488)6月、須賀谷原(比企郡嵐山町)の合戦:
鉢形城侵攻のために兵を挙げた定正、朝良(定正の甥で養子)父子、古河公方足利政氏(成氏の子)、追放先から復帰した長尾景晴の連合軍と迎撃する顕定、憲房(顕定の養子)、太田資康(道灌の嫡子)が対戦、山内方敗走。

長享2年(1488)11月、高見原(比企郡小川町)の合戦:
定正、伊勢宗瑞(後の北条早雲)などの連合軍と顕定、越後の長尾為景(謙信の父)らが対戦、山内方が敗走。

明応3年(1494)10月、荒川の合戦:
定正と顕定が比企郡小川町から大里郡寄居町にかけての地域で対戦、定正は対陣中、落馬の傷が元で死亡、扇谷方は河越城へ退却、朝良が跡を継ぐものの、山内方は上戸(川越市)に陣を進め、足利政氏が加勢。

明応5年(1496)5月、柏原(狭山市)の合戦:
顕定、政氏の連合軍と朝良が対戦、扇谷方が敗走。

永正元年(1504)9月、立河原(日野市)の合戦:
顕定、長尾為景の連合軍と朝良、伊勢宗瑞、今川氏親の連合軍が対戦、朝良は河越へ、伊勢、今川軍は府中へ退却。

道灌の暗殺で臣下の信を失った扇谷方からは三浦氏などの大身の武将が離脱、残ったのはもっぱら中小領主の連合体だったそうですから、詳しくは伝わりませんが、これらの合戦の幾つかに資家も参加していたのではないでしょうか。

ちなみに、翌永正2年(1505)、扇谷上杉朝良は、山内上杉顕定にその本拠・河越城を囲まれます。朝良は江戸城に退隠することによって山内方と和睦(実質的な降伏)をし、ここに17年に及ぶ扇谷・山内両上杉家の対立は終結します。
明応4年(1495)に大森藤頼から小田原城を奪った伊勢宗瑞の勢力が無視できないものになっていたこともあるでしょう。

扇谷・山内の和睦により、太田資康も扇谷方に復帰します。しかし、扇谷上杉家の家宰は道灌暗殺の際に直接手を下したと言われる曾我兵庫が務めており、道灌が務めていた江戸城の城代も兵庫の子の祐重が務めていました(永正2年から朝良が居城)。
資康とその子資高は岩淵砦(北区)に置かれており、こちらの太田一族は復帰した後も冷遇されているようです。このことが後に扇谷方滅亡の種となることになります。

永正10年(1513)、資康は妻の実家の三浦氏を救援のため出陣して、伊勢宗瑞との合戦の中、命を落とします。
続く永正13年(1516)には三浦氏の新井城が陥落、三浦同寸・義意父子は自刃して滅亡、伊勢宗瑞が相模一国を手にします。2年後の永正15年(1518)には伊勢宗瑞が家督を子の氏綱に譲り、翌16年(1519)には伊勢宗瑞は亡くなっています。

そうして戦乱の中心が、山内・扇谷上杉氏、古河公方などから対北条氏に移り始めた永正年間(1504-1520)あたりに家督を子の資頼に譲って、大永2年(1522)に資家は亡くなりました。


三代 太田資頼 ????-1536 治楽斎 道可
資頼の代になると、否応なく北条氏(大永3年(1523)に宗瑞の子・氏綱により改姓)と対決しなければならなくなります。
資家が亡くなった2年後の大永4年(1524)、北条氏綱が品川へ進出、江戸から迎撃に出陣した扇谷上杉朝定の跡を継いだ甥の朝興と高輪原(品川区)で戦います。
資頼は、この際に朝興にしたがって高輪原へ出陣しています。
合戦は後北条方の勝利に終わり、朝興は江戸城へ退却、篭城しますが、ここで太田資高・康資父子が北条氏綱の誘いに乗って内応、朝興は河越へ敗走します。

後北条方へ落ちた江戸城には、後北条氏が入れた遠山氏、富永氏とともに資高・康資の一族が城代として入り、近辺を領して後北条氏に仕えました。

翌大永5年(1525)2月には岩付城にも北条氏綱の攻撃が及び、資頼の臣・渋江三郎の内応により城は陥落、資頼は石戸城(北本市)へ退却を余儀なくされます。
この後、山内上杉氏の助勢を受けた朝興は、小弓公方足利義明(足利政氏の次男で陸奥を放浪していたところを上総の武将・武田恕鑑が還俗させて小弓城(千葉市)に入れ、小弓御所と称した)、房総の里見氏と連携して後北条氏と対峙します。

大永5年(1525)3月上杉朝興、菖蒲城(南埼玉郡菖蒲町)へ来襲、同月北条氏綱葛西城(葛飾区)を攻略、8月朝興と氏綱、白子原(和光市)で合戦、後北条方敗走、大永6年(1526)6月朝興、蕨城(蕨市)を攻略、11月朝興、玉縄城(鎌倉市)へ来襲と、続きます。
資頼は朝興軍に従って、これらのいくつかには参加しているのではないでしょうか。

そして享禄3年(1530)1月朝興、武蔵世田谷、ついで江戸城下へ乱入、6月小沢原(川崎市多摩区)で朝興と氏綱の間で合戦があり、今度は上杉方が敗走します。
9月には資頼など朝興方が岩付城を攻撃、城方の渋江三郎を討って城を取り返しています。

その後も上杉方と北条方の小競り合いは続きますが、天文5年(1536)に資頼は亡くなります。跡は嫡男の資時が継ぎます。

四代 太田資時 ????-1546
資時は資頼の長子で、その跡を継ぎます。 高まる北条氏の圧力を感じてか、彼は密かに北条氏康と気脈を通じていました。

天文6年(1537)に上杉朝興が河越で没し、跡を13歳の朝定が継ぐと、これに乗じた氏綱は河越へ攻め寄せ、上杉方は三ツ木原(狭山市)で迎え撃ちますが、敗れて上杉方は松山城(比企郡吉見町)へ撤退、河越城は氏綱の手に落ちます。
天文15年(1546)、河越城奪回を目指す朝定は山内上杉憲政(顕定の4代あと)、古河公方足利晴氏(政氏の孫)などとともに河越城を巡って攻防戦を繰り広げますが、資時は北条氏に義理立てして出陣しなかったそうです。
しかしこの後資時は病没、跡は弟の資正が継ぐことになります。

五代 太田資正 1522-1591 三楽斎 道誉
こうして登場したのが太田資正です。三楽斎を略して三楽とも言われる資正は、岩槻太田氏の中ではもっとも著名(比較的…)な人物で、上杉謙信にも彼を評して「希代の名将」と言わしめた、生涯を「反北条」に捧げたような武将です。 兄資時が河越城への出陣を見合わせていたときもひとり出陣、結局は上杉方の敗北で終わり、朝定は戦没して扇谷上杉氏は滅亡、憲政は本拠の上州平井城(藤岡市)へ退却(天文21年(1552)に後北条氏の攻撃で退去、永禄元年(1558)頃越後へ逃亡)、両上杉氏の配下であった大石定久(滝山城・八王子市)、藤田重利(天神山城・秩父郡長瀞町)、上田朝直(松山城)、成田長泰(忍城・行田市)、上杉憲賢(深谷城・深谷市)などが相次いで北条方へ靡き、晴氏も嫡男藤氏を廃嫡し、氏綱の娘との子・義氏に跡を譲らざるを得なくなった(後に挙兵、敗れて幽閉の中没)戦乱(いわゆる河越の夜戦。ただし、夜戦ではなかったとか、そもそも合戦ではなく、複数の小戦の集合だったとかいろいろ説があるようです)の中に参加していたのです。

しかし、家督を継いだ後は兄資時の政策に従い、しばらくは雌伏の時を過ごします。
弘治2年(1556)4月には氏康の命に従い、親北条方の結城政勝(結城城・結城市)と対立する小田氏治(小田城・つくば市)を討伐する軍勢に、太田康資、遠山丹波守、富永三郎左衛門らの江戸城在番衆と共に軍監として出陣、小田城を落として氏治を土浦城(土浦市)に追っています(氏治は翌年小田城へ復帰)。

越後に逃れた上杉憲政ですが、山内上杉氏の家宰・長尾氏の一族である越後の長尾景虎(春日山城・上越市)を頼ります。
この長尾景虎が後に関東管領上杉家を相続して上杉政虎、出家して謙信と呼ばれるようになるわけですが、永禄三年(1560)、憲政や関東の諸将の要請を受けた謙信がはじめて三国峠を越え、関東に出陣します。
これを知るや資正は北条氏に叛いて上杉方につきます。
そして河越方面の抑えとして、寿能城(大宮市)を築き、子の潮田資忠に浦和・大宮周辺の領地を与え、ここを守らせます(潮田というのは資忠の母の姓で、その名跡を継いだとも、実は資忠は子ではなくて、太田氏の一部族が潮田常陸介という武将の養子になったという説もあるそうです)。
資正は上杉方の先鋒として、謙信(当時はまだ長尾景虎)とともに松山城(東松山市)を陥落させます。謙信は松山城を資正に任せ、資正は岩槻に匿っていた上杉憲勝(扇谷上杉朝良の兄)を松山に置いて城代とします。

資正は次男を梶原上野介の後家の養子として、梶原源太政景と名乗らせたといいますが、この後謙信が関東管領相続の儀式として鎌倉の鶴岡八幡宮に拝賀した際、由緒ある梶原姓の政景に太刀を持たせたという逸話も伝わっています。

謙信は武田信玄に本拠の越後を脅かされたため、間もなく帰国しますが、その後を追うように攻めてくる北条氏康の大軍を資正は松山城で防ぎます。
この時、資正は数多くの犬を飼っていて、それを松山と岩槻の間の連絡に使ったということで、史上初めて軍用犬を使った武将としても名前を残しています。

この頃の太田氏は本拠の岩付城を中心に、北は松山城、石戸城、西は寿能城、入間川を越えて今の川島町あたりまで影響下に治めていたようです。南は蕨城、さらには今の都電荒川線の梶原駅の近くに梶原政景の居館があったと言うことですから、そのあたりまでを勢力圏としていたことがわかります。

永禄五年(1562)には武田信玄と北条氏康の連合軍が松山城を攻撃、謙信が救援の軍を率いて石戸城まで迫りますが、城将の上杉憲勝は水の手を立たれたことと、後北条氏が和睦交渉を持ちかけたため、謙信の到着を待たずして開城、謙信は激怒して人質としていた憲勝の子を切り捨てたといいます。

翌永禄六年(1563)12月には、謙信は信玄の攻める倉賀野城(高崎市)救援のために再び出陣、冬季の出陣のために兵糧の確保に苦労し、資正や佐貫城(富津市)の里見義弘らが兵糧の調達を命ぜられ、市河津(市川市)で調達活動を行いますが、葛西城(葛飾区)の守備にあたっていた太田康資が資正に通じていたのが露見、資正の元に逃亡したこともあってこの動きを掴んで出陣した北条氏康、氏政父子の率いる二万の軍勢と国府台城(市川市)付近で合戦となり、八千の寡兵をもって序盤は優位に進めるものの、油断したところを側面を突かれて敗北、第二次国府台合戦として知られるこの戦闘に破れて退却しました。

資正は敗北の後、宇都宮城(宇都宮市)へ赴いている留守中に、嫡男氏資によって岩付城を奪われ、次男梶原政景とともに追放されます。
資正は北条氏康の娘を氏資の妻に迎えているのですが、資正は反北条を唱える弟の政景の方を愛していたとも言いますから、家督争いのようなものもあったのでしょうか?

資正は岩槻復帰を目指して常陸(茨城県)の佐竹義重を頼り、片野城(新治郡八郷町)を与えられ、客将として永禄12年(1569)、小田城の小田氏治らと戦い、真壁城(真壁郡真壁町)の真壁氏幹らの援軍を得てこれを破るなど佐竹氏の一翼として貢献します。
が、岩槻復帰は果たせないまま、天正18年(1590)の小田原の役の翌年、この片野で没します。享年は70歳でした。

資正とともに追放された梶原政景は小田氏治を破って手に入れた小田城に城代として置かれ、そのまま佐竹氏に仕えます。
天正12年(1584)には北条氏に内通したとして佐竹義重に攻撃されたりもしたようです。
時代が義重の子、義宣の代になり、関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が秋田に転封となった際も従い、漫画家の岩明均氏によってモーニング新マグナム増刊に連載された「雪の峠」という作品中では梶原美濃として登場しています。
「雪の峠」は佐竹氏秋田転封の際のお家騒動「川井事件」を題材としていますが、この川井事件の後、佐竹氏を出奔、越前の結城秀康に仕え、大坂の陣にも参戦しています。

資正が片野城主となった後、前城主八代将監の娘で上曾源三郎の後家を妻として迎え、資武・景資の2子が生れます。

資武は父資正の家督を継ぎ、安房守と名乗っています。後に越前の結城秀康、子の松平忠直から始まる越前松平家に仕えます。大坂の陣にも参戦しています。

資武の次男、正長は幕府の命を受け、近江草津の関守として移住したそうです。
後に酒造りをはじめ、子孫は現在でも草津市で太田酒造という酒造会社を営んでおられるそうです。

景資は文禄4年(1595)に佐竹氏の命で武茂氏に代わって武茂城(那須郡馬頭町)に入封しますが、佐竹氏の秋田転封に景資も従い、武茂城は廃城となったそうです。
その後の景資については良くわかりません。そのまま久保田藩に仕えたのか、あるいは兄政景とともに出奔し、共に越前藩に仕えたのでしょうか?

六代 太田氏資 1543-1567
氏資は父資正が第二次国府台合戦に敗れた後、氏康の誘いに乗り、父資正と弟梶原政景を追放して岩付城主となります。 氏資は氏康の息女を妻として迎えていましたし、氏資という名前の氏の字は氏康の時と同じですから、一字を与えられるような密接な関係にあったのかもしれません。 しかし、国府台合戦から3年後の永禄10年(1567)、国府台合戦に続き南総里見氏を攻める北条氏政に従軍、三船山砦(君津市)に陣して里見氏の本拠、佐貫城を窺いますが、里見方の策に嵌り、障子谷に誘い込まれて身動きが取れなくなったところを急襲され、大敗を喫しました。氏資はこの際に北条軍の殿軍を務め、討ち死にします。

氏資の死後、氏政は氏資の娘小少将を次男の氏房の妻に迎え、太田氏を継がせます。
この後の太田氏は北条氏の一門衆として武蔵支配に貢献します。
このため、男子のない氏資をわざと討ち死にさせるために殿軍をさせたという謀略説もあるようです。
しかし、初めから里見氏の討伐戦を失敗させようとして始めるわけはありませんし、殿軍が失敗すれば氏政自身の身が危ないわけですから、ちょっと考えずらいですが。

岩槻の太田氏の名跡は、この氏房に継がれ、氏房は小田原の役の際、小田原城に篭城し、岩付城には城代・伊達与兵衛房実ら二千の兵をを置きましたが、浅野長吉率いる二万の軍勢の前にわずか1日で開城を余儀なくされます。
役後、氏房は高野山にはいり、その後文禄2年(1593)、秀吉の第二次朝鮮の役に従って肥前唐津にいましたが、その陣中で没したとのことです。(肥前寺沢氏に預けられたという説も)

潮田資忠は資正の追放後、氏資に従います。
小田原の役では嫡男資勝とともに小田原城に篭城、討ち死にしました。しかし、次男の資政は資武の庇護を受けた後、古河藩主土井利勝に仕え、古河藩家老として続いたといいます。

太田氏や潮田氏、そして北条氏などの家臣の一部は役後帰農し、この地の農民となります。
彼らなどが、利根川の東遷(利根川と荒川を分け、利根川を鬼怒川などと合流させて銚子で太平洋に注ぐように変え、荒川を入間川と合流させて江戸湾に注ぐようにした大河川工事)を初めとして、見沼の干拓、見沼代用水の開削、今も市内各所に残る、藤右衛門川、鴻沼排水路、伝右川などにより行われた湿地の干拓・新田の開発、現在は別所沼、白幡沼などの形で残る灌漑用の溜池の開発など、多くの労力をかけて、街道沿いの一握りの台地を除いては、川と氾濫原と湖沼と湿地が目立っていた、この比較的新しい土地を拓いたのです。

この先さいたま市、岩槻市の合併が進めば、地理的に見沼の存在は、これまで以上にクローズアップされそうな気がします。
今のような枯れた荒野(に見える)という感じでなく、室町の頃のような地理的なランドマークになったらいいですね。

参考資料(一部)
江戸城 埋もれた古城
河越城 埋もれた古城
岩槻城 埋もれた古城
武家家伝 太田氏
武家家伝 岩槻太田氏
武家家伝 扇谷上杉氏
太田氏の系譜と事歴
戦国武将・お
河越夜戦(3)
蕨の歴史
寿能城
見沼の歴史
稲付城址
白竜亭・利根川今昔
中川・綾瀬川の歴史
私説江戸城物語

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コメント (4)

ゴン太:

>大永5年(1925)3月上杉朝興、菖蒲城(南埼玉郡菖蒲町)へ来襲、同月北条氏綱葛西城(葛飾区)を攻略、8月朝興と氏綱、白子原(和光市)で合戦、後北条方敗走、大永6年(1926)6月朝興、蕨城(蕨市)を攻略、11月朝興、玉縄城(鎌倉市)へ来襲と、続きます。

大永5年は1525年では???(^^)

こんな突っ込み入れるのは私ぐらい?

そのとおりです(^_^;

というのは内容とツッコミを入れる人という両方の意味で(笑)

大永6年も1926年になってますね…
直しとこ。

カルバリオ:

興味深く読ませていただきました。続編を期待します。歴史の浅い浦和(さいたま)ですが、これで市域に歴史の深みが少しばかりでそうすね。城下町があったってのがいいです。

ありがとうございます。

続編、と言ってもちょっと思いつかない部分もありますが、何か思いついたら調べてみます。
どうぞよろしくお願いします。

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