« サポーターの要求と「民主主義的」手続きについて | メイン | 本物のヒーローは誰? »

サッカーチームに対する帰属意識について

サッカーを見るとき、機械的にメカニズムを分析したいというのでもなければ、心理的な帰属意識などに従って、対戦する両者の一方に肩入れしながら観戦することになります、少なくとも私の場合は。

そしてその帰属意識ですが、日本、となってしまうと、私には少し大きすぎるのです。日本代表について少し醒めた目を持ってしまうのはそのためです。
私にとってリアルなのは、実のところ土地というレベルでいえば、どこにもないのかも知れません。

福島県の病院で生まれ、3歳のときに埼玉県に引っ越してきて、幼稚園で浦和に越し、小学校、中学校とそこで過ごしました。僕らがその頃住んでいたところは、田んぼだったところに新たに沢山の人が引っ越して来て、大きく変わっていったところで、元からそこに住んでいた人たちを隣人に持ち、間違いなく自分の実家ですが、「故郷(ないし田舎)」という思いは持てずにいました。

当時は京浜東北線の北浦和駅や与野駅、その周辺のデパートやスーパーが僕らにとっての都会で、大宮駅周辺などは、さらにその上、何か特別なこと(誕生日に玩具を買ってもらうときだとか)がなければ行けないところでした。

今考えれば、僕らの住んでいた土地は「浦和」とは言っても、主要部とはやはり異なった雰囲気の土地であったと思います(北足立郡大久保村が浦和市に編入されたのは戦後の昭和30年1月1日。僕らが住んでいた神田地区は今でも独自に祭りをしてます。浦和駅の近辺でやっている浦和祭りの中には大久保とか神田とか出てきません)。

小学校のときに自分がある程度足が速いのがわかり、中学では陸上部に入りました。
その頃、市の陸上の大会の会場として使われ、僕らのホームグランドであったのが今の駒場スタジアムです(その当時は駒場陸上競技場だった)。
その時に初めて他校に友人ができ、彼らは常盤中だとか本太中だったわけですが、やはりそうして駅に近いところに住んでいる彼らに対して、若干のコンプレックスを持っていました。

高校に入って初めて浦和市内から当時の自分の主要交通手段である自転車で出て、短大に入って初めて独りで飛行機やフェリーに乗ることを覚えて本州から出て、大学に入って初めて山手線の内側をうろうろするようになったりする中でそうしたコンプレックスめいたものは次第に消えていきましたが、かつてのホームグラウンドである駒場への愛着(当時自分たちの出番を待つため、メインスタンドの裏の通路にビニールシートを敷いて場所を取って、陣地にして1日中、芝生の観客席との間を往復したものです)は消えませんでした。いわば敵地(大げさ)の中の自陣のような気持ちを感じていたわけです。

Jリーグが開幕したのは大学受験の1浪中だった時でしょうか、浦和にもチームができ(その頃まで浦和を本拠地とするチームは社会人野球の日本通運くらいしか知りませんでした。ロッテの2軍がいると知ったのはごく最近)、浦和にプロがサッカーをできるところがあるのかと思っていたら、駒場を使うと聞いて、最初に感じたのは驚き、そして自分の愛着のある存在がメジャーになることの晴れがましさのような感情でした。

しかし、同時に晴れがましすぎ、また、チケットが入手できないという話を聞いて、試合があると聞けば中継を見て、一喜一憂していました(正直に言えば、当時はあの赤いユニフォームと足の速い選手のために広島カープのファンであり、広島にも球団ができたことと、友人に先に自分はレッズが好きだと言われたこともあって、一番最初からレッズファンだと宣言していたわけではありません)が、まれに友人からチケットが余ったからと誘われた時以外は、実際にスタジアムへ行くことはありませんでした。

それでもトリビソンノのホームランのようなクリアと赤紙コレクターぶり、ドイツ代表のブッフバルトやバイン、他にもオジェック監督やルンメニゲやラーンが来た時の頼もしさ(当時から理由もなくドイツが好きでした)、どきどきしながら見守った福田の得点王、小野選手の活躍ぶり、岡野の快足などはリアルタイムで見ていますよ。

転機となったのは99年、97年の開幕戦に行くことができ、前年の98年くらいにはもういっぱしのレッズサポになった気でいた頃です(この点は今でもそうだけど)。
近づいてくる降格の危機、個人的にも悩みを抱えていた頃(思えば自分のサイトで日記を公開し始めたのもこの頃)で、チケットの取り方もわからずにテレビの前で悶々としながら、最後の広島戦は会社の社員旅行(仙台)と被り、FMラジオを持って旅行先で移動しながら試合の様子を追ったのを思い出します。

同点で90分が終わった、降格だというのを知って、これはもう自らが応援するしかないと決めた、決意したその時の気持ちはちょっと青臭くて恥ずかしいけれど、原点に戻るつもりで引用してみます。

11月28日
1900年代最後のリーグ戦が終了。90分以内に点を取れなかったレッズはJ2への降格が決定した。

1999-2000 Jリーグ 1stDev.年間順位表に記したとおり、社長がナ○ツネとお友達の市原に得失点差で、オリンピック最終予選による中断前から、中断後の「ファイブ・ファイナルズ」の全敗を含め6連敗した福岡にも得失点差1点の差で劣ることになった。広島にはそれほど大きなモチベーションがないわけだから、守るべきものがない、あるいは少ない相手にあのたくさんのサポートの下で点を取ることができなかったわけだ。
残念なことは他にもいくつかある。もちろん、最終節で点を取れなかったこと。チキのラストゲームを飾れなかったこと。広島がやや守備的な戦い方をしたこと。もちろんルールにもマナーにも違反しているわけではないが。広島のスタイルからしてもしょうがないことであるし。 過去のことで言えば、市原との直接対決であと1点が取れなかったこと。
平塚との対戦であれだけのチャンスがあったのにもかかわらず、2点に留まったこと。
そして、V川崎戦での88分の失点(北澤についていたのは~そして決定的な瞬間にフリーにしたのは~後で見ると城定だった)。
不甲斐ない福岡があと2点取られなかったこと。
G大阪が市原に勝てなかったこと(せめて引き分けか延長負けなら...)。
これはいまさらいってもしょうがないことではあるだろう。

最終節では(今見てるんだが)、ピクンがV川崎戦での負傷により出場できなくなったので、ロボを替わりに入れ、少し不安定なのでFWを減らして守備的ハーフを増やそうというのは理解できる。1枚のFWにここのところ絶好調の永井を使うのもわかる。
後半に入ってチキに替えて大柴。今まで岡野を投入していた代わりと考えれば納得いかなくもない(岡野のほうが組み立てができるだけやや良いんだが)。ただし、チキがいなくなって中盤でキープすることができなくなった。
そして2枚目に投入するFWが盛田というのは理解ができない。
今年入団したばかりの彼は(といっても永井や小野より年上だけどね)、大型FWとして期待され、1st Stageではフォーメーションを3トップに変えてまで前監督の原さんに使われ続けた(14試合出場)。
結果的には慣れないフォーメーション、中盤を省略して彼のところに放り込むが、ターゲットマンとしての役割を期待されても前線でつぶされるといったことで、1st Stageの低迷の原因の一つともなった。
2nd Stageではさすがに出場試合数は少なくなったが(岡野・永井が帰国したこともある)、福岡(交代・敗戦)、名古屋(先発・敗戦)、G大阪(先発・勝利~ただし前半12分で負傷退場して交代で出場した福田の得点による~)、神戸(交代・敗戦)の4試合で使われ、あまり結果を残せていない(内容は必ずしも悪くないんだが)。
そして3枚目、80分に最後のそしてある種ギャンブル的な位置で投入されたのが福田。これは逆で無いかい。
福田はある程度キープできるから前がかりになった状況でも後ろを突かれる不安はやや少ない。
そして盛田はキープできない上、特色からして空中戦での一発で得点できる可能性がある。ということを考えれば答えは明らかだろう。
実際に盛田は幾度かの決定機を外している。
精神的なものもそうで、福田がフィールドにいる、いないでは大きな違いがあり、実際最近の試合では名古屋には同点に追いつかれた後半14分に交代出場して負けたものの、G大阪には得点して勝ち、ベンチ入りもしなかった神戸戦は負け、次の市原、平塚、ともに点を取って連勝している。V川崎戦は福田に変わった岡野がPKを取ってリードしたが、中盤・前線でキープできなくなったこともあり、同点に追いつかれて引き分け、そして広島戦でも遅すぎたものではあったが、点を取った。

分析はそんなところで、レッズというチームが持っている控えも含めた選手の実力、フロント・監督の判断・決断力が今の結果をもたらした。それは間違いのないことである。いくつかの可能性があったことは確かだが。5勝9敗1分、それが危機感をもって監督を更迭し、実力のある幾人かの選手をレンタルで補強し、新外国人を獲得して、得られた結果である。
日本のサッカー全体のことは関係ない。来年のJ1は各チームがレッズ戦で稼いでいた観客数分、動員数が減少するかもしれないが、それも関係ない。
J2の試合ということで、観客数が少なくなっても、あの熱狂的なサポーターが少なくなったとしても、実力のある選手の何人かが移籍しても、私は浦和を応援しよう。J2ではテレビ中継もほとんどないだろうから、スタジアムに足を運ぼう。
岡野・永井・ペトロ・田北はもう既に残留するといっている(らしい)。小野はどうなるかわからないけれども、国内ではV川崎、名古屋からオファーがあるらしい。V川崎は李国秀監督が清水商業の時代の縁から獲得に自信を持っているということだけれど、V川崎に移籍することはほとんどメリットがないのではないかと思われる。まずREDSサポータの大半はV川崎を嫌っているようだし、それは日本全体のサッカーファンのコアな層にも同じことが言えると思う。そして現在のV川崎の状態で彼自身が新たに学べることがそれほどあるとは思えないし、結局はテレビの視聴率稼ぎと客寄せ用になってしまうのではないか、という事が予想されるのではないかと思う。彼がもともと行きたかったのは地元の清水だという話でもあるし。
デモスコーチの去就がどうなるかわからないけれども、中川社長、横山GMといったフロント陣は刷新される可能性がある。ギドなんてどう?現場のコーチよりもフロントにきちんと近代的なサッカーの現場を知っている人を連れてきたほうがいいと思う。鹿島の0からの躍進もジーコがコーチをしていたからではなく、フロントに意見を言える立場にいたからだ、と思う。

その後シーズンチケットのキャンセル待ちに友人と2人分(その友人の許可も得ず勝手に)申し込み、天皇杯のチケットを(確かチケットぴあかどこかで)買って、どういうわけかSB席のシーズンチケットに当選し、J2開幕の水戸戦から通い始めたのが始まりです。
第2節の湘南戦を皮切りにアウェーにも行くようになり、はじめは近場だけのつもりが、甲府へ行き、新潟へ行き、山形へ行きとするにつれて、結局室蘭、札幌、福岡、鳥栖、大分と通い詰めるようになりました。
しかし、そんなきっかけでしたから、あの「ファイブ・ファイナルズ」、それも特に市原戦と広島戦で現場にいることができなかったというのはある種のコンプレックスとして今でもついて回っています。
また、高校は武南でしたから、今の埼玉高校サッカー関係者、オールドファンの王国復活願望というのも理解はできます(当時、時めいていた大宮東の前で武南は足踏みをしていた)。
が、本当に浦和が強かった時期、浦和南の三冠というのを実体験で知らないのもコンプレックスです。

だから、私にとっても、本当のところ好きなのは「サッカー」ではなく、「浦和レッズ」であり、「駒場スタジアム」であり、武南をはじめとした「埼玉」であるのだと思います(ちなみに埼玉を象徴する存在として「埼玉スタジアム2002」も好きですよ)。
そうしたものに帰属意識を感じています。

だからその他のものはどうしても二義的になってしまうところはありますね。
あの頃憧れていた北浦和周辺の街並みや、駒場スタジアムへの愛着が象徴するものの前に、「サッカーファンとはこうあるべし」みたいな取ってつけたような理屈は、残念ながら敵わないのです。
ですから、私は多少外道ではあるものの、浦和をホームタウンとするチームのホームタウンの住民として育つことができました。両親が引っ越し先として浦和を選んだこと、浦和にJのチームが誕生したことは例えようもない幸運でありました。
しかし、それが幸運であったということとレッズサポとしてそういう条件が必要だというのは違います。
サポであること、それは何かの縁でそのチームに対する帰属意識をもっていること、それが必要十分条件なのだと私は思っています。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://shibirekulage.com/mt/mt-tb.cgi/119

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

Creative Commons License
このブログは、次のライセンスで保護されています。 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス.