歴史(日本史)のうたかたに消えていった数多の人物の一人に、この藤田信吉がいます。いわゆる戦国時代に生きた人です。彼については学生の頃にちと調べたものですので、ひょっとしたらもっと新しい事実が判明しているかもしれません。
1560年の前後にかけて、関ヶ原の1点でその人生を交錯させる幾人かの人物が生まれています。
徳川勢の先鋒を務めた赤備えで有名な井伊直政が1561年、石田三成など文官派と対立、追放にも関わった加藤清正が62年、福島正則が61年、三成の親友として挙兵を思いとどまるよう説得、叶わなかった後はともに兵を挙げ、戦場の露と消えた大谷吉継が59年、徳川家康に通じ、南宮山にあった毛利秀元の軍を参戦させないよう留めた吉川広家が61年、そして西軍の中心として反家康で兵を挙げた秀吉の忠臣、石田三成が60年、上杉景勝の名参謀として活躍、直江状という家康弾劾の書状を送り、上杉征伐を招いた事でも知られる直江兼続も60年、そしてここで紹介する藤田信吉も59年の生まれです。
人生50年と謡われる当時のこと、40歳前後という年齢はまさに働き盛りですから、そのあたりに集中しているのは別に不思議でもなんでもないですが。
藤田信吉は永禄2年(1559年)に当時の武蔵国北西部をその地盤としていた関東七党の一つ、猪俣党の出である(畠山重忠の末裔という説もあるようです)天神山(秩父郡長瀞町)城主藤田重利(康邦とも)の次男に生まれます。名は他に弥六郎・重信・源心ともいい、能登守と称しました。
藤田氏は関東管領である山内上杉家に従っていましたが、彼の生まれた頃、小田原の北条氏(後北条氏)は武蔵への進出を強めており、天文15(1546)年の川越合戦で上杉憲政が北条氏康に破れると重利は北条氏へ降り、信吉の姉にあたる大福御前を氏康の3男氏邦に妻として与え、氏邦を養子として迎えて家を譲ります。
彼の生まれた翌年、永禄3(1560)年には越後に落ちた上杉憲政に頼られた長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に出兵しているような、まがうことなき関東の戦国時代です。
彼は義兄となった北条氏邦の配下でその軍団の一員として活動し、謙信の死後、天正6(1578)年5月に上杉家の跡目を巡って共に謙信の養子である景勝と景虎(北条氏康の八男)の間で争い(御館の乱)があった際に氏邦に従って出兵、雪のために三国峠を越えられず、北条氏が支援する景虎は敗死してしまいますが、信吉はそのときに上杉方から奪った沼田城に城代として入れられます。
やがて、兄の重連が北条氏邦に謀殺されると、身の不安を感じた彼は、真田昌幸の誘いに乗って武田方に降り、沼田領を安堵されます。
しかしその武田家も織田信長の侵攻で滅亡、彼は自領が信長家臣で新たに関東管領となった滝川一益に与えられることになったのに反発、上杉景勝に通じようとしますが、一益に攻められ、城を捨てて景勝の下に走ります(滝川一益に仕えたという説もあるようですが)。
城地もなく落ちてきた信吉ですが、景勝は重く用い、新発田攻めの最前線で働いたり、佐渡を平定したりしています。彼らの一党は上杉陣内で武蔵衆と呼ばれていたそうです。その頃の知行は約2千8百石。
また、秀吉の北条攻めの際、上杉軍の先鋒として働き、上州国峯城を落としています。北国勢(前田利家、上杉景勝、真田昌幸他)はそのまま北条氏邦の篭る鉢形城(秩父郡長瀞町)を囲み、信吉はかつての義兄と自らの故地で向き合うことになります。
信吉は藤田家を継いだため、氏邦にとっても菩提寺である正竜寺の良栄大和尚に開城して降伏するよう氏邦を説得することを依頼し、やがて城兵の命と引き換えに鉢形は開城します。
氏邦はそのまま前田家にお預けとなり、慶長2(1597)年金沢城内で57歳で死去します。
氏邦の末子光福丸は秀吉に15歳になったら10万石を与えるとの御朱印を賜るものの、関ヶ原の戦いの前年、13歳で病没します。
氏邦の妻で信吉の姉でもある大福御前は小田原に人質として留め置かれていましたが、開城の後に鉢形に帰り、尼となって千日間に普門千部読誦の発願をなし、その満願の日に自刃しました。享年52歳。
その後も文禄元(1592)年の朝鮮出兵時には景勝に従って渡海したりし、蒲生氏郷が没した後に会津に移った上杉景勝に従い、会津と越後の国境にあたる要衝・津川城の城代を任せられ、知行として1万1千石を与えられるなど宿将として上杉家を支えました。
しかし慶長5(1600)年、徳川家康との対抗姿勢を深める上杉家中にあって、強硬派の直江兼続と対立、その年の元旦に年賀の使者として家康の下を訪れ、その知遇を受けていたこともあり、3月に上杉家を出奔して家康のもとに走り、景勝が軍備の増強などをしていることを讒言、上杉征伐のきっかけとなります。
讒言をきっかけとして、家康から景勝に対する詰問状(実際には僧・承兌から兼続宛の景勝に上洛を促す書状)が送られ、それに対する返事が「直江状」といわれる書状になる(後世の偽作との説もあります)わけですが、その中に下記のような一節があります。
「一、景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、去々年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候、就中当国は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、当国の案内者に御尋ねあるべく候、然らば何者が景勝逆心具に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。」
(ひたすら怪しい意訳)
景勝が上洛を延期していることについて、不審に思っている(家康が)とのことですが、国替え(越後→会津)してすぐに上洛、昨年9月に帰国したばかりなのに、正月にまた上洛しろと言われても、いつ領国の仕置きをしたら良いのでしょう?
なかんずく当国は雪国であって、10月から3月は何もできないということは、当国の案内者に尋ねていただけばわかることであるのに、それならば誰が景勝が逆心を抱いていると(嘘を)言っているのだろうと考えているところです。
つまり、信吉や同様に家康に密告した角館城主戸沢政盛が言っていることが嘘ですよと誹謗する内容です。
信吉に対して、向背が定まらない者という印象が定まったのはこの一件のあとからでしょうか。
北条→武田は氏邦のはかりごとから逃れる緊急避難、武田→上杉は主家滅亡のために仕方がないといえないこともないですし。
そうして家康は秀吉の子、秀頼の命令として会津を征伐する軍を起こし、その軍勢が小山に至ったところで三成が西国で毛利輝元を担いで挙兵し、それを聞いた家康が反転して今の岐阜県と滋賀県の県境である関ヶ原で対戦するのが関ヶ原の合戦に至る流れになります。
戦後、三成は処刑され、兼続は主家である上杉家が会津120万石→米沢30万石に減封されつつ生き残りますが、信吉は出奔後、剃髪して源心と号して京・大徳寺に蟄居していました。
その際、家康は信吉に下野那須10万石を与えようとしたがこれを断わったという話もあります。
後に還俗し、家康に仕え下野西方で1万5千石を与えられます。
佐竹義宣が関ヶ原の際に水戸にとどまって不穏な動きを見せたことから秋田に転封になった際、水戸城に残った反対派を捕らえるなどしています。
そして慶長20(1615)年、大阪夏の陣で信吉は榊原康勝の軍を指揮する(当時戦乱がない時期が長かったため、信吉のような実戦経験のある指揮官は貴重だった)ものの、軍を抑制して戦闘に参加させなかったとして改易、翌年信濃奈良井で没した(自害とも)といいます。
子はなかったと言われますが、数年前子孫が長野県で宿を営んでいたのがわかったという記事を読みました(保存しておいたのだけれど見つからない...)。
コメント (2)
数年前子孫が長野県で宿を営んでいたのがわかったという記事を私も読売新聞で見ましたが信憑性は低いです。
藤田信吉の一族は、松代藩の藩士として幕末まで続いていたようです。真田家の側室にも上がり5代藩主真田 信安の生母となりました。
実は祖母がその藤田から出ています。
とにかく、貴殿の記事興味深く読ませていただきました。
ありがとうございました。
投稿者: 六連銭
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2006年08月01日 17:31
日時: 2006年08月01日 17:31
コメントいただき、ありがとうございます。
藤田信吉の一族は真田で続いていたとのこと、貴重な情報をありがとうございます。
小説か何かで、羽柴秀吉が北陸の柴田勝家を滅ぼした後、糸魚川だか親不知だかで上杉景勝の軍と会して、その場で秀吉の懐刀である石田三成と景勝の右腕である直江兼継が出会って、それ以来昵懇となったというような話がありました。
その場には藤田信吉もいたとかで(あるいはいたのではないかと想像して)、年齢も近いこの3人が後に関ヶ原の合戦で辿る数奇な運命というのは、対照的でちょっと面白いなぁと思っていろいろ調べたのがきっかけでした。
で、調べていくうちに藤田家を乗っ取った北条氏邦との関係だとか、私の親戚が新潟県の津川町にいて、幼い頃にお城があった山に登ったりしているのですが、まさにそのお城を信吉が与えられていたとか(これは個人的なことですが)、いろいろな波乱万丈があって、石田三成とか、直江兼継のように恵まれた立場にはない、この時代には無数にいたはずのそうした叩き上げの人物の象徴として、彼の目線で何かお話のようなものが書けたら面白いのではないかなぁと調べたものをまとめてみたのが上の記事です(結局そのお話そのものは書かず仕舞いでしたが)。
新聞の記事の方は信憑性が低いとのことで残念ですが(いや別に松代藩で続いていたというのはそれはそれでまたドラマティックですが)、なんというか、自分では相当マニアックな(失礼)人物だと思っていた藤田信吉の名がパッと新聞の紙面で飛び込んできたのが驚きだったのです。
改めて読み直すと、もう少し突っ込んで調べられればまた違う面白さがありそうな気がしますね。
投稿者: ShibireKulage
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2006年08月08日 19:33
日時: 2006年08月08日 19:33